三木のあゆみ
受け継がれるキューづくりの精神
株式会社三木の物語は、1924年、群馬県富岡市の中心地で始まりました。創業者・三木福次郎が木工製品の製作を開始したこの年から、一世紀にわたる精密加工の歴史が幕を開けます。
世界遺産・富岡製糸場を擁する富岡市は、1870年代より絹糸産業の中心地として繁栄を極めていました。国際的な絹の取引で賑わうこの街で、福次郎は職人としての道を歩み始めます。木琴の撥先(ばちさき)から祭礼用の山車(だし)装飾まで、多彩な木工品を手がけながら、素材への深い理解と確かな技術を培っていきました。
第二次世界大戦後、福次郎は織機用シャトルボビンの製作に注力します。木目を見極め、反りや歪みのない部品を生み出すその技術は、高い評価を獲得しました。
寡黙な職人が遺したこの技術と精神こそが、株式会社三木の礎となります。富岡という国際都市で育まれた開かれた視点と、妥協なき品質追求。この二つの遺伝子が、やがて世界へと羽ばたく企業の原点となったのです。
1958年、高校を卒業した三木雄次は、父・福次郎の技を継ぐべく東京・豊島町の高橋木工製作所で修行を始めます。そこで目にしたのは、約1.5メートルの角材が職人の手で優雅な曲線を描いていく光景でした。ビリヤードのワンピースキュー。一本の木から削り出されるこの精密な道具との出会いが、株式会社三木の未来を決定づけます。
9ヶ月の修行を経て富岡に戻った雄次は、1959年、父と共に工房を継承。職人技を機械で再現するという挑戦に乗り出します。専用旋盤を考案し、半年の試行錯誤の末に完成した試作品が評価され、1960年、師匠の工房から月産500本という大量注文を獲得しました。
生産拡大に伴い、1964年、工房を富岡市七日市の530坪の敷地へ移転。従業員約10名、月産2,000本の体制を確立します。しかし同年、唯一の納品先が倒産、さらに12月には父・福次郎が61歳で逝去するという試練が重なります。
それでも雄次は歩みを止めませんでした。1965年2月25日、有限会社三木木工製作所を設立。同時期、シャフトとバットを金属ジョイントで接続する「ツーピースキュー」の存在を知り、新技術習得のため若き社員の吉田憲行を横浜へ派遣します。真のキューメーカーへの道が、ここから始まりました。
唯一の納品先を失った雄次は、海外市場に活路を見出します。1965年、貿易商社・協北商会を通じてワンピースキューの輸出を開始。この決断が、会社の運命を大きく変えることになります。
海外からの注文は急増し、月産2万本という驚異的な生産量を達成。従業員は10名を超え、工場は700坪へ拡張されました。雄次は「誰もが同じ品質を再現できる」という理念のもと、職人技の機械化と工程改善に徹底的に取り組みます。個人の技能に依存しない、安定した品質管理システムの確立。それは、世界市場で戦うための基盤づくりでした。
輸出先の一つに、ニューヨークのビリヤード用品販売業者、デヴィッド・フォーマンがいました。日本の木工技術の精度に着目した彼は、「アメリカ水準の品質を、日本のコストで実現できる」という構想を抱き、日本での工場建設プロジェクトを始動させます。
これは単なるビジネスの出会いではありませんでした。アメリカのキュー製作技術と日本の精密木工が融合する、歴史的な瞬間の予兆だったのです。
1968年、デヴィッド・フォーマンは協北商会と合弁で株式会社リーガルキュー製作所を埼玉県浦和市に設立。アメリカの若き名工ディック・ヘルムステッターを工場長に迎え、本格的なツーピースキュー製作が日本で始まります。しかし翌1969年、両社が相次いで倒産。夢は潰えたかに見えました。
フォーマンは諦めませんでした。1970年3月、単独出資で有限会社アダムカスタムキューズジャパンを入間市に設立。ヘルムステッターを社長に据え、再び挑戦を開始します。そして、生産拡大のため、彼らが選んだ外注先こそ、三木木工製作所でした。
選定理由は明確でした。早期からのツーピースキュー研究、職人技の機械化による高精度と安定品質。三木の強みが、アメリカ企業の眼鏡に適ったのです。
1970年4月25日、社名を「株式会社三木」へ変更。木工の枠を超えた、多様なものづくりへの決意を込めた新たな船出でした。翌1971年10月1日、アダムカスタムキューズジャパンと製造受託契約を締結。従業員20名体制で、アメリカ水準のツーピースキュー製作が本格始動します。日本の精密技術とアメリカの設計思想が融合した、新時代の幕開けでした。
1971年、株式会社三木はアダムカスタムキューズジャパンからのOEM生産を開始します。”ADAM”ブランドを冠したキューは、フォーマンの販売網とヘルムステッターの最新技術により世界市場へ。三木の名は表に出ることなく、しかし確かな品質で、日本のキュー製作水準を飛躍的に高めていきました。
1971年のニクソン・ショックにより円高が進行。多くの輸出企業が苦境に立たされる中、三木は生き残ります。ヘルムステッターが要求する高度なインレイ技法や精緻な彫刻装飾。難題を一つひとつクリアする技術力が、途切れぬ注文を呼び込んだのです。
1970年代中期、三木の製作範囲は飛躍的に拡大します。アメリカ向けポケットキュー、ヨーロッパ向けキャロムキュー、イギリス向けスヌーカーキュー。異なる仕様、異なる市場の要求に応え、月産2,000本の完成品を世界へ送り出しました。
アダム、ヘルムステッター、ブランズウィック、ロンゴーニ、ライリー。いくつものブランド名を冠したキューが、三木の工場から生まれていました。世界中のプレーヤーは、それが日本製であることさえ知らなかったでしょう。しかし確かに、株式会社三木は世界のビリヤード界を支える、見えざる巨人となっていたのです。
1980年代、アメリカのビリヤード人気は下降。1985年のプラザ合意後、為替は1ドル150円台へと円高が加速し、日本製キューの輸出メリットは急速に失われていきます。1986年、アダムカスタムキューズジャパンは社名を有限会社アダムへ変更、ヘルムステッターはアメリカへ帰国。三木への発注は減少し、厳しい時代が訪れました。
しかし1987年、風向きが一変します。映画『ハスラー2』公開と「プールバー」の登場により、空前のビリヤードブームが日本を席巻。ビリヤード台とキューの需要が爆発的に高まります。
ところが三木は、契約上アダムへの納品しか許されていませんでした。そこで選んだのが、ビリヤード台のレール枠製作。最先端のNCマシン(コンピュータ制御工作機械)を導入し、この技術革新は、より複雑なインレイデザインを可能にしました。
しかし独自デザインの提案は採用されず、三木が製作できるのは普及モデルが中心。OEMという立場が、大きな足枷となっていたのです。
1988年、経営方針をめぐって新たな局面が訪れます。委託元のアダムとの協業継続について、両社の間に異なる見解が生じることになりました。この時期、三木は今後の事業展開について検討を重ね、自社の経営方針と異なる方向性については了承することができず、契約関係の見直しを進めることになります。
その後、契約を解消し、三木は独立したキューメーカーとしての道を模索することになりました。 しかし自由には代償が伴いました。契約終了後も、海外バイヤーや国内業者との直接取引は実現せず、アダムからの注文に応じる状況が数年続きます。1991年、ブームは終息。三木は家具部材や三味線の製作で経営を維持する、長い冬の時代を迎えることになりました。
1966年生まれの三木一則は、七日市の工場に隣接する自宅で育ち、木工の音と匂いの中で少年時代を過ごしました。大学時代、ビリヤードブーム真っ只中でキューデザインのアルバイトに携わるうち、ある決意を固めます。「自らのブランド名で、世界中に販売したい」。しかしその思いを両親に告げることなく、1988年イギリスへ留学。英語を習得後、貿易商社で輸出入実務を経験し、1994年4月、株式会社三木に入社しました。
一則の改革は矢継ぎ早でした。ヨーロッパ業者との直接契約で収益率を劇的に改善。そして1995年7月、念願の自社ブランド『マジェスティカ』(Majestica)を立ち上げます。「威厳」を意味する”majesty”から名付けられたこのブランドで、『MF』『MB』シリーズと高級モデル『SP-1』を発表。デザインは一則、製作は雄次と吉田が担当しました。
しかし現実は厳しいものでした。一則と吉田が全国のビリヤード場を営業して回っても、反応は芳しくありません。日本のプレーヤーにとって、マジェスティカは突如現れた新興メーカー。35年の歴史など、誰も知らなかったのです。
1995年8月、アメリカのネバダ州ラスベガスのBCAトレードエキスポ。海外市場開拓のため、覚えやすい短い名称『メッヅ』(Mezz)を掲げます。古語「愛づ(めづ)」から名付けたブランドで挑みます。しかし1ドル90円台の超円高、そして何より無名であるという壁。商談はまとまりませんでした。過去の実績や品質だけでは、キューは売れなかったのです。
「市場で認められるには独創性が必要」。そう痛感した三木は、約1年をかけて『UN』シリーズを開発。1996年7月のエキスポで発表します。特許取得の『ユナイテッド・ジョイント』、短く伸びやかなバットエンドキャップ、積層タップのパイオニア『モーリティップ』。革新に満ちた6モデルとブレイクキュー『BRC』のラインナップでした。
メッヅはアメリカの業者が興味を示し、念願の代理店契約が実現。さらに「海外限定」という情報が日本に伝わり、国内からも購入希望が殺到します。1997年、『SD』『SG』シリーズと拡充版『UJ』シリーズを発表。メッヅの知名度は急上昇し、1999年、マジェスティカを終了。メッヅは世界統一ブランドとなりました。
1996年、三木は若手トッププロ・高橋邦彦(JPBA)と契約を締結します。ジャパンオープン、全日本選手権、ナインボール世界選手権を制した彼は、初のプロフェッショナルモデル『TA-1』を手に活躍。同時に、キュー特性への的確なアドバイスでメッヅの性能向上に貢献し、やがて多くのプロプレーヤーとの契約への道を開きました。
1995年のBCAトレードエキスポで、一則はプレデター社のアラン・マッカーティと出会います。貼合わせメイプルと先端軽量加工を施した『314シャフト』。それは無垢材シャフト至上主義の時代に、科学的アプローチで挑む異質な存在でした。その手法に強く印象づけられた三木は、1999年3月、独自設計の撞球ロボット『キューマスターI』を開発。同じ撞点、同じ強さで反復可能なこの装置で、トビ、見越し、ヒネリなど客観的データの収集を開始します。世界でも数社しか取り組まない先進的研究でした。
2000年7月には『キューマスターII』へ改良。その約2年間の蓄積が、やがて『ハイブリッド・シャフト』という革新を生み出すことになります。
1990年代、多様なキューメーカーが台頭します。三木は自社にない技術を持つメーカーとの提携を積極的に推進。1999年9月、独自のクリアファイバー樹脂技術を持つキューテック社との日本国内総代理店契約を締結。同年、三木デザイン・キューテック製造によるコラボレーションブランド『フォーカス』を発表し、2001年には『ゼスティ』へ改称、三木製スペアシャフトを装備しました。
2000年には別のメーカーと提携し『レイジ』『フューリー』を発売。さらにプレデター社の『314シャフト』パーシャルシャフト(ジョイントが装備されていないシャフト)を2000年11月から七日市工場でジョイント加工、メッヅのオプションとして提供。協業は深化し、やがて一則のオリジナルデザインのバットをプレデター社に供給、『by Mezz』『by K. Miki』と明記されるまでになります。
かつてOEMとして名を出せなかった時代とは、状況が一変したのです。
2000年代初頭、三木は新製品を矢継ぎ早に投入します。メイプルストレートの『BS』『BC』シリーズ、世界限定200本の『LE2000』、初のジャンプ専用キュー『JC』、改良版プレーキュー『PUJ』シリーズ。
そして2000年8月、キューマスターによる2年間の研究成果が結実します。メイプル内部に二段構造のカーボンファイバー芯を配した『メッヅ・ハイブリッド・シャフト』の特許出願。(2010年12月3日、特許取得)2001年7月、限定100本の『LE2001』に標準装備として搭載されました。 2002年、コンポジットウッド(木材と合成樹脂の複合材)を素材メーカーに特注し、ブレイク専用キュー『パワーブレイク』を発売。さらに、木のやせによる緩みを防ぐ独自形状『ウェイビー・ジョイント』を開発。これは『ユナイテッド・ジョイント』と並ぶ、三木独自のジョイントシステムとなります。
2003年、コンポジットウッド使用の『ZZ』シリーズを国内でも『CP』として販売開始。国内外でのモデル統一化が完了しました。見えざる巨人は、今や革新を牽引するリーダーへと変貌していたのです。
2000年代初頭、高価なカスタムキューへの人気が高まります。「メッヅ=量産メーカー」というイメージを打破すべく、三木は2003年3月、新シリーズのプロトタイプを発表しました。その名は『エクシード』(Exceed)。「限界を超える」という一則の決意を込めた名称です。
同年6月に発売された初のシリーズは、約3年の開発を要した『パワーコアバット』を採用。バット全体を貫く芯材という高度な構造の実現には、三木が創業以来培ってきた卓越した工作技術が不可欠でした。当初は『メッヅ・エクシード』として限定生産、バットエンドには『Mezz EX』の文字と真珠母貝のドットインレイを施し、改良版『ハイブリッド・プロ・シャフト』を標準装備。2003年8月には最高級モデル25本限定『LE2003』を発売します。
商標登録後の2004年、名称を『エクシード』へ変更。メッヅとは別ブランドとして独立させ、新たな地平を切り開きました。
2005年4月29日、三木一則が代表取締役社長に就任。雄次は会長となり、新たな時代が始まります。体制変更直後の同月、『ハイブリッド・プロ』シャフト標準装備の限定モデルメッヅ『HP』シリーズを発売。9月にはブルネイ国際招待試合で、自らプレーヤーでもあるビラ皇太子へメッヅ『LE2003』を贈呈。これは三木にとって大きな名誉でした。
この時期、技術革新が加速します。11月、ブレイク用シャフト『ディープインパクト』を発表。同時に、普及価格帯でも優れた性能を実現した新シャフト『WD700』を開発しました。先端約15cmの内部にスチレン樹脂と木材の支持構造を採用し、メイプル無垢材の感触を残しながら見越しを低減しています。
2008年6月には『ハイブリッド・プロ2』を改良した『ハイブリッドアルファ』シャフトを標準装備した『Mezz ACE』シリーズを発表。翌2009年には、アッシュ材をコア材に使用し、パワー性能を高めたブレイク専用シャフト『ディープインパクト・プロ』をリリースしました。
メッヅとエクシードの評価は高まっていましたが、「量産メーカー」というイメージは根強く残っていました。ブランドイメージの飛躍には、さらなる挑戦が必要でした。
2006年、三木は『インターナショナル・キュー・コレクターズ・ショー』(ICCS)に初出展します。ネバダ州ラスベガスで開かれたこのイベントは、少量生産の高級キューメーカーと世界有数のコレクターが集う、最高峰の舞台。他のメーカーやコレクターが目の前で直接評価する、真剣勝負の場でした。
三木は毎回ICCSのために特別モデルを製作し続けます。他の高級メーカーと競い、様々なデザインや技法を吸収しながら、エクシードは徐々に高級市場へ浸透していきました。2009年サンタフェで発表したサンタフェコレクション『EXCS-09SF』、2010年サラソタで発表したマリタイムコレクション『EXICS-MC10』(「航海-Koukai」)。ICCS限定モデルが高い評価を獲得し、エクシードは確固たる地位を築きます。
2010年代に入り、日本製エクシードは、その品質とデザインだけでなく、「インターナショナル」なイベントに欠かせないキューメーカーとして認められたのです。
2003年12月の岡本工場移転以降、三木の研究開発は加速していきます。2010年代に入ると、革新的な製品が次々と誕生しました。
2010年2月、エクシードの『デュアルパワーコア』構造ウッドグリップを採用した土方隼斗プロモデル『EXD-HA2』、5月にはメッヅのブレイクキュー新製品『パワーブレイクプロ』を発表。2011年1月には、ヨーロッパ19カ国の国旗をモチーフにしたメッヅ『ユーロ』シリーズを限定発売。ビリヤードキューデザインにおける革新的な試みでした。
技術面でも大きな進展を見せます。プレーヤー自身がキューの重量バランスを微調整できる構造の研究に着手。2010年4月「キューの重心調節構造」、8月「シャフトウェイト調整システム」の特許を取得。これらの技術は、後の『シャフトウェイトボルト』やバット前後で重量調整可能なメッヅ『アヴァント』(AVANT)に結実します。
2011年3月11日、東日本大震災が発生。群馬県内では最大震度6弱を記録しましたが、幸い岡本工場の被害は軽微で、開発・生産への影響は最小限に留まりました。三木は日本ビリヤード商工連合会(BCJ)を通じてビリヤード関係者への援助を実施。4月にはブレイクシャフト『ディープインパクトプロH』を発表します。
6月、木目の美しさを強調したスニーキーピート、メッヅ『MSP』シリーズ、9月にはケブラー素材シャフトを装備した初のマッセショット専用キューメッヅ『MA-FK』を発表。2012年にはアレックス・パグラヤンプロモデルメッヅ『AP-2』、各25本限定のメッヅ『LE-12』4種類を投入。2013年7月には『WD700』を改良した『WX900』シャフトの販売を開始しました。
さらに三木は、1970年代以降のOEM生産で培ったノウハウを活かし、ポケットビリヤード以外の種目へも展開。2014年3月にキャロムキュー、メッヅ『CR』シリーズ、7月にスヌーカーキュー、メッヅ『SKR』シリーズを発売し、キュー総合メーカーとしての地位を確立しました。
ブレイクショットは勝敗を左右する重要な技術であり、ブレイクキューは世界のメーカー間で激しい競争が繰り広げられる分野です。三木は国内外の契約プロプレーヤーの知見を活かし、積極的な開発に取り組みました。
2014年12月、『パワーブレイク魁(Kai)』を発表。シャフト先端部とタップを再設計し、ブレイクスイートスポット(撞点許容範囲)を拡大。的球ラックへの強力なパワー伝達と手球のコントロール性を両立させました。
同月、エクシードの新ハイブリッド・シャフト『EX Pro』を発表。シャフト先端部の新構造『EXフロントエンドテクノロジー』と新設計『EX Proテーパー』により、メイプル無垢材シャフトのようなナチュラルな撞感と特性向上を実現。多くのプレーヤーに受け入れられ、エクシードの魅力を一層高めることになりました。
2015年には、メッヅの新シリーズを2種類投入。2月、現代キューのスタンダードデザインである長短6剣ハギのメッヅ『CP-13SW』シリーズ、7月には13種類のデザインを揃えたメッヅ『AXI-15』シリーズを発売。同時に、シャフト根元部分に錘を挿入し3gから10gの範囲で重量調整可能な『シャフトウェイトボルト』を発表しました。
「カーボンシャフト」は、伝統的な木製シャフトでは困難だったテーパー、弾性、しなり、重さの調整を可能にし、しかも個体差の少ない製品を生産できるという革新的な特性を持っていました。この新技術の登場を契機に、世界中のキューメーカーによる開発競争の時代が始まります。
三木はすでに準備を整えていました。2000年代初頭から『ハイブリッド・シャフト』やケブラー素材シャフトを持つ『MA-FK』を市販していただけでなく、社長の一則は早くから非木材シャフトの時代を予見し、2010年頃から研究開発に取り組んでいたのです。
2018年9月、まずカーボン素材『AD2』シャフトを装備したジャンプ専用キュー、メッヅ『エアドライブ2』を発売。そして約8年間の開発期間を経て、2019年1月、プレーキュー用カーボンシャフト『イグナイト12.2』(Ignite 12.2)を発表しました。キャッチフレーズは「Ignite your limits」。「限界に火をつけろ」という、三木の熱い想いを込めたネーミングです。
『Ignite12.2』は、細身のテーパーで先端径12.2mmという小径でありながら、それよりも太い木製シャフトの標準テーパー以上の打感とパワーを持ち、繊細なタッチも得意。しかもシャフトの個体差はほぼなく、高性能・長寿命を実現しました。しかしその生産は、三木が創業以来手がけてきた木材製品の製造工程とは全く異なる、新しい挑戦でした。2019年11月、岡本工場を拡張し、木材製品生産とは完全に分離した専用ラインを構築しました。
『Ignite12.2』発表とほぼ同時期の2018年12月、木製の新シャフト『WX-α(アルファ)』を標準装備したメッヅ『ACE-18』シリーズを発売。『WX-α』は『WX900』の先端部構造とテーパーを見直し、先角に新素材『NXフェーラル』を採用。メッヅ『ACE-18』シリーズは、全モデルのバット材にエボニー、ジョイントには初めてアルミ合金ウェイビージョイントピンを採用した、メッヅの最上級ラインでした。
2019年11月、銘木の美しさを生かしたメッヅ『EC-9』を発表。新開発の『WX-Σ(シグマ)』シャフトを標準装備します。先端径12.5mm、新素材『XJプレートフェラル』を採用し、手球のスピンをより多く与えられるスペックを実現しました。 2020年7月には、普及価格シリーズ、メッヅ『MSP』を『WX-Σ』標準装備の『MSP2』へモデルチェンジ。価格を抑えたシリーズであっても、三木は研究開発に時間をかけ、妥協しませんでした。
『Ignite G』は、ブレイクショットに特化し、全パーツの強度を高めた専用設計。しかし、最大限のパワーと手球のコントロールの両立は極めて困難で、バットも含めた仕様の見直しを何度も繰り返しました。『Power Break G』は、バットと『Ignite G』シャフトの組み合わせで最良の性能を引き出すよう設計されたため、シャフト単体では販売していません。
世界中のプレーヤーが待ち望んだこの製品は、新型コロナウイルス禍という困難な時期にもかかわらず、高い評価を獲得しました。
2002年のオリジナル『WAVY』は、ウッド・トゥ・ウッド接合の宿命である「雌ネジの緩み」を独自形状で克服していました。『WAVY2』はネジの谷角度を最適化して引っ張り強度を向上させ、雌ネジを樹脂複合構造へ変更することでさらなる高精度を実現。メッヅとエクシードの新たな標準となり、オリジナル『WAVY』はその役目を静かに終えました。
7世紀、仏教伝来とともに日本に伝わった截金。金箔・銀箔・プラチナ箔を焼き合わせ、型紙も下書きもなくフリーハンドで文様を描く、究極の職人技です。社長・一則自らが陣頭指揮を執り、京都の截金師・松久真やと熟練職人たちが一本ずつ手作業で装飾を施しました。
個体差を排する工業製品と、唯一無二を生む伝統工芸。相反する哲学の融合は困難を極めました。西陣織の技法で織ったカーボン繊維「西陣織カーボン」がジョイントとバットキャップに彩りを添え、金箔20本・プラチナ箔1本の限定21本として完成。発売と同時に完売し、二度と製作されることのないこの作品は、世界中のコレクターの垂涎の的となっています。
好みのシャフトを装着する前提でバットのみを販売し、8種類の錘をセットにした『ウェイトボルトセット』で購入後の調整を可能に。2024年3月、世界10ボール選手権優勝者ヴォイチェフ・シェブチックのポーランド国旗モデル、2025年1月にはカラーバリエーション豊富な『AVT-24』シリーズを展開し、一人ひとりの理想を実現する道具として進化を続けています。
2022年9月、メッヅ『ACE218』、2023年3月『WX-Σs』『WX-Σt』シャフト、5月にユナイテッド・ジョイント装備の新シリーズ、メッヅ『ASTR』、7月にスリークッション用メッヅ『CR23』と『Ignite3C』カーボンシャフト。生産完了した『EC9』のデザインを『CR23』に継承し、伝統と革新を繋ぎました。
2024年4月、完全新設計ジャンプキュー、メッヅ『AIRDRIVE3』を発表。新開発『TSUBASA Tip』、カーボンシャフト『AD3』、そして三木初のカーボン製バット。オールカーボンという新境地が、ジャンプショットの可能性を大きく広げました。
しかし留学中、多くの人々との交流を通じて気づきます。「半世紀以上続く家族経営の企業がいかに貴重か。それを自分が終わらせていいのか」。大学卒業後、大手自動車メーカーで工場ライン設計など約2年半の経験を積み、2024年1月、株式会社三木に入社。海外経験豊富な後継者の帰還は三木にとって大きな喜びでした。親子のバトンがつながり、新たな時代が始まったのです。
スヌーカー世界女王7回、ポケットビリヤード世界女王4回、2009年BCA殿堂入り、そして2023年1月、大英帝国勲章(MBE)授与。現代キュースポーツ界史上最高の女性プレーヤーとの出会いでした。2024年2月、世界限定200本の『AF-1』を発売。世界のトッププレーヤーと三木の製品は、真のベストパートナーとなりました。
2025年9月、テネシー州チャタヌーガで開催されたICCS2025。古き良きアメリカ南部の文化を彷彿とさせる会場に、十数名のキューメーカーが集結します。テーマは『The Elegance in Silver and White Collection』。銀と白をモチーフにした最高級キューが、2日間のオークションにかけられました。
三木が出展したのは『Exceed 2025 ICCS Special Collection』の『EXICS2-25E』と『EXICS2-25W』、各1本のみ。オークション対象となった『EXICS2-25E』の入札が始まり、価格は上昇し続けます。そして、ICCS史上最高額での落札。会場に驚きと称賛が広がりました。初出展から30年、知られざる努力が実を結び、ついに最高峰の栄誉を手にした瞬間でした。
そして2026年、『Majestica』発売以来一貫して製作してきたメイプル無垢材シャフトに『Origin』(オリジン)という名を与えました。厳選されたハードメイプルを独自開発『STテーパー』に加工。カーボンでは得られない打感と打音。木材加工技術と豊富なストックを持つ三木ならではの製品です。球を撞いた際の木材の手触りは、ベテランには安心感を、若いプレーヤーには新鮮な感覚を与える、時代を超えて愛される本質がそこにあります。
19世紀から絹糸生産で世界とつながりを持った富岡市に根差し、30人以上のスタッフが高品質なメイド・イン・ジャパン製品を世界へ送り出しています。時代は木材から人工素材へと移りつつありますが、三木のアイデンティティである木工製品づくりへの情熱は絶やさず、新たな素材への研究・開発も続けています。
これからの100年を見据え、理想のキュー製造の追求は、これからも続いていきます。