三木のあゆみ
受け継がれるキューづくりの精神
株式会社三木の物語は、1924年、群馬県富岡市の中心地で始まりました。創業者・三木福次郎が木工製品の製作を開始したこの年から、一世紀にわたる精密加工の歴史が幕を開けます。
世界遺産・富岡製糸場を擁する富岡市は、1870年代より絹糸産業の中心地として繁栄を極めていました。国際的な絹の取引で賑わうこの街で、福次郎は職人としての道を歩み始めます。木琴の撥先(ばちさき)から祭礼用の山車(だし)装飾まで、多彩な木工品を手がけながら、素材への深い理解と確かな技術を培っていきました。
第二次世界大戦後、福次郎は織機用シャトルボビンの製作に注力します。木目を見極め、反りや歪みのない部品を生み出すその技術は、高い評価を獲得しました。
寡黙な職人が遺したこの技術と精神こそが、株式会社三木の礎となります。富岡という国際都市で育まれた開かれた視点と、妥協なき品質追求。この二つの遺伝子が、やがて世界へと羽ばたく企業の原点となったのです。
1958年、高校を卒業した三木雄次は、父・福次郎の技を継ぐべく東京・豊島町の高橋木工製作所で修行を始めます。そこで目にしたのは、約1.5メートルの角材が職人の手で優雅な曲線を描いていく光景でした。ビリヤードのワンピースキュー。一本の木から削り出されるこの精密な道具との出会いが、株式会社三木の未来を決定づけます。
9ヶ月の修行を経て富岡に戻った雄次は、1959年、父と共に工房を継承。職人技を機械で再現するという挑戦に乗り出します。専用旋盤を考案し、半年の試行錯誤の末に完成した試作品が評価され、1960年、師匠の工房から月産500本という大量注文を獲得しました。
生産拡大に伴い、1964年、工房を富岡市七日市の530坪の敷地へ移転。従業員約10名、月産2,000本の体制を確立します。しかし同年、唯一の納品先が倒産、さらに12月には父・福次郎が61歳で逝去するという試練が重なります。
それでも雄次は歩みを止めませんでした。1965年2月25日、有限会社三木木工製作所を設立。同時期、シャフトとバットを金属ジョイントで接続する「ツーピースキュー」の存在を知り、新技術習得のため若き社員の吉田憲行を横浜へ派遣します。真のキューメーカーへの道が、ここから始まりました。
唯一の納品先を失った雄次は、海外市場に活路を見出します。1965年、貿易商社・協北商会を通じてワンピースキューの輸出を開始。この決断が、会社の運命を大きく変えることになります。
海外からの注文は急増し、月産2万本という驚異的な生産量を達成。従業員は10名を超え、工場は700坪へ拡張されました。雄次は「誰もが同じ品質を再現できる」という理念のもと、職人技の機械化と工程改善に徹底的に取り組みます。個人の技能に依存しない、安定した品質管理システムの確立。それは、世界市場で戦うための基盤づくりでした。
輸出先の一つに、ニューヨークのビリヤード用品販売業者、デヴィッド・フォーマンがいました。日本の木工技術の精度に着目した彼は、「アメリカ水準の品質を、日本のコストで実現できる」という構想を抱き、日本での工場建設プロジェクトを始動させます。
これは単なるビジネスの出会いではありませんでした。アメリカのキュー製作技術と日本の精密木工が融合する、歴史的な瞬間の予兆だったのです。
1968年、デヴィッド・フォーマンは協北商会と合弁で株式会社リーガルキュー製作所を埼玉県浦和市に設立。アメリカの若き名工ディック・ヘルムステッターを工場長に迎え、本格的なツーピースキュー製作が日本で始まります。しかし翌1969年、両社が相次いで倒産。夢は潰えたかに見えました。
フォーマンは諦めませんでした。1970年3月、単独出資で有限会社アダムカスタムキューズジャパンを入間市に設立。ヘルムステッターを社長に据え、再び挑戦を開始します。そして、生産拡大のため、彼らが選んだ外注先こそ、三木木工製作所でした。
選定理由は明確でした。早期からのツーピースキュー研究、職人技の機械化による高精度と安定品質。三木の強みが、アメリカ企業の眼鏡に適ったのです。
1971年、株式会社三木はアダムカスタムキューズジャパンからのOEM生産を開始します。”ADAM”ブランドを冠したキューは、フォーマンの販売網とヘルムステッターの最新技術により世界市場へ。三木の名は表に出ることなく、しかし確かな品質で、日本のキュー製作水準を飛躍的に高めていきました。
1970年代中期、三木の製作範囲は飛躍的に拡大します。アメリカ向けポケットキュー、ヨーロッパ向けキャロムキュー、イギリス向けスヌーカーキュー。異なる仕様、異なる市場の要求に応え、月産2,000本の完成品を世界へ送り出しました。
1980年代、アメリカのビリヤード人気は下降。1985年のプラザ合意後、為替は1ドル150円台へと円高が加速し、日本製キューの輸出メリットは急速に失われていきます。1986年、アダムカスタムキューズジャパンは社名を有限会社アダムへ変更、ヘルムステッターはアメリカへ帰国。三木への発注は減少し、厳しい時代が訪れました。
ところが三木は、契約上アダムへの納品しか許されていませんでした。そこで選んだのが、ビリヤード台のレール枠製作。最先端のNCマシン(コンピュータ制御工作機械)を導入し、この技術革新は、より複雑なインレイデザインを可能にしました。
1988年、経営方針をめぐって新たな局面が訪れます。委託元のアダムとの協業継続について、両社の間に異なる見解が生じることになりました。この時期、三木は今後の事業展開について検討を重ね、自社の経営方針と異なる方向性については了承することができず、契約関係の見直しを進めることになります。
一則の改革は矢継ぎ早でした。ヨーロッパ業者との直接契約で収益率を劇的に改善。そして1995年7月、念願の自社ブランド『マジェスティカ』(Majestica)を立ち上げます。「威厳」を意味する”majesty”から名付けられたこのブランドで、『MF』『MB』シリーズと高級モデル『SP-1』を発表。デザインは一則、製作は雄次と吉田が担当しました。
1995年8月、アメリカのネバダ州ラスベガスのBCAトレードエキスポ。海外市場開拓のため、覚えやすい短い名称『メッヅ』(Mezz)を掲げます。古語「愛づ(めづ)」から名付けたブランドで挑みます。しかし1ドル90円台の超円高、そして何より無名であるという壁。商談はまとまりませんでした。過去の実績や品質だけでは、キューは売れなかったのです。
メッヅはアメリカの業者が興味を示し、念願の代理店契約が実現。さらに「海外限定」という情報が日本に伝わり、国内からも購入希望が殺到します。1997年、『SD』『SG』シリーズと拡充版『UJ』シリーズを発表。メッヅの知名度は急上昇し、1999年、マジェスティカを終了。メッヅは世界統一ブランドとなりました。
1995年のBCAトレードエキスポで、一則はプレデター社のアラン・マッカーティと出会います。貼合わせメイプルと先端軽量加工を施した『314シャフト』。それは無垢材シャフト至上主義の時代に、科学的アプローチで挑む異質な存在でした。その手法に強く印象づけられた三木は、1999年3月、独自設計の撞球ロボット『キューマスターI』を開発。同じ撞点、同じ強さで反復可能なこの装置で、トビ、見越し、ヒネリなど客観的データの収集を開始します。世界でも数社しか取り組まない先進的研究でした。
2000年7月には『キューマスターII』へ改良。その約2年間の蓄積が、やがて『ハイブリッド・シャフト』という革新を生み出すことになります。
2000年には別のメーカーと提携し『レイジ』『フューリー』を発売。さらにプレデター社の『314シャフト』パーシャルシャフト(ジョイントが装備されていないシャフト)を2000年11月から七日市工場でジョイント加工、メッヅのオプションとして提供。協業は深化し、やがて一則のオリジナルデザインのバットをプレデター社に供給、『by Mezz』『by K. Miki』と明記されるまでになります。
かつてOEMとして名を出せなかった時代とは、状況が一変したのです。
そして2000年8月、キューマスターによる2年間の研究成果が結実します。メイプル内部に二段構造のカーボンファイバー芯を配した『メッヅ・ハイブリッド・シャフト』の特許出願。(2010年12月3日、特許取得)2001年7月、限定100本の『LE2001』に標準装備として搭載されました。 2002年、コンポジットウッド(木材と合成樹脂の複合材)を素材メーカーに特注し、ブレイク専用キュー『パワーブレイク』を発売。さらに、木のやせによる緩みを防ぐ独自形状『ウェイビー・ジョイント』を開発。これは『ユナイテッド・ジョイント』と並ぶ、三木独自のジョイントシステムとなります。
2003年、コンポジットウッド使用の『ZZ』シリーズを国内でも『CP』として販売開始。国内外でのモデル統一化が完了しました。見えざる巨人は、今や革新を牽引するリーダーへと変貌していたのです。