会社沿革

三木のあゆみ

1924年より続く卓越への系譜
受け継がれるキューづくりの精神
株式会社三木にとって理想のキューを追い求めることは、1924年に始まった木工の伝統と、
1960年に芽吹いたキュー製造の探求が紡ぐ、終わりなき革新の旅です。
富岡の小さな工房から、世界のトップブランドへ。
その歩みと精神を紐解きます。

Part 1: 創業前~前史 1924-1958

富岡、絹の街から生まれた木工の技

株式会社三木の物語は、1924年、群馬県富岡市の中心地で始まりました。創業者・三木福次郎が木工製品の製作を開始したこの年から、一世紀にわたる精密加工の歴史が幕を開けます。

世界遺産・富岡製糸場を擁する富岡市は、1870年代より絹糸産業の中心地として繁栄を極めていました。国際的な絹の取引で賑わうこの街で、福次郎は職人としての道を歩み始めます。木琴の撥先(ばちさき)から祭礼用の山車(だし)装飾まで、多彩な木工品を手がけながら、素材への深い理解と確かな技術を培っていきました。

精密への探求、シャトルボビンという転機

第二次世界大戦後、福次郎は織機用シャトルボビンの製作に注力します。木目を見極め、反りや歪みのない部品を生み出すその技術は、高い評価を獲得しました。

寡黙な職人が遺したこの技術と精神こそが、株式会社三木の礎となります。富岡という国際都市で育まれた開かれた視点と、妥協なき品質追求。この二つの遺伝子が、やがて世界へと羽ばたく企業の原点となったのです。

Part 2: 創業 1959-1965

運命の出会い、一本の木から生まれる芸術

1958年、高校を卒業した三木雄次は、父・福次郎の技を継ぐべく東京・豊島町の高橋木工製作所で修行を始めます。そこで目にしたのは、約1.5メートルの角材が職人の手で優雅な曲線を描いていく光景でした。ビリヤードのワンピースキュー。一本の木から削り出されるこの精密な道具との出会いが、株式会社三木の未来を決定づけます。

9ヶ月の修行を経て富岡に戻った雄次は、1959年、父と共に工房を継承。職人技を機械で再現するという挑戦に乗り出します。専用旋盤を考案し、半年の試行錯誤の末に完成した試作品が評価され、1960年、師匠の工房から月産500本という大量注文を獲得しました。

七日市、拡大する工房と新たな試練

生産拡大に伴い、1964年、工房を富岡市七日市の530坪の敷地へ移転。従業員約10名、月産2,000本の体制を確立します。しかし同年、唯一の納品先が倒産、さらに12月には父・福次郎が61歳で逝去するという試練が重なります。

それでも雄次は歩みを止めませんでした。1965年2月25日、有限会社三木木工製作所を設立。同時期、シャフトとバットを金属ジョイントで接続する「ツーピースキュー」の存在を知り、新技術習得のため若き社員の吉田憲行を横浜へ派遣します。真のキューメーカーへの道が、ここから始まりました。

Part 3: 海外展開 1965-1969

世界への扉、月産2万本という躍進

唯一の納品先を失った雄次は、海外市場に活路を見出します。1965年、貿易商社・協北商会を通じてワンピースキューの輸出を開始。この決断が、会社の運命を大きく変えることになります。

海外からの注文は急増し、月産2万本という驚異的な生産量を達成。従業員は10名を超え、工場は700坪へ拡張されました。雄次は「誰もが同じ品質を再現できる」という理念のもと、職人技の機械化と工程改善に徹底的に取り組みます。個人の技能に依存しない、安定した品質管理システムの確立。それは、世界市場で戦うための基盤づくりでした。

太平洋を越えた邂逅

輸出先の一つに、ニューヨークのビリヤード用品販売業者、デヴィッド・フォーマンがいました。日本の木工技術の精度に着目した彼は、「アメリカ水準の品質を、日本のコストで実現できる」という構想を抱き、日本での工場建設プロジェクトを始動させます。

これは単なるビジネスの出会いではありませんでした。アメリカのキュー製作技術と日本の精密木工が融合する、歴史的な瞬間の予兆だったのです。

Part 4: 技術革新 1969-1971

太平洋を渡った技術、埼玉に芽吹く

1968年、デヴィッド・フォーマンは協北商会と合弁で株式会社リーガルキュー製作所を埼玉県浦和市に設立。アメリカの若き名工ディック・ヘルムステッターを工場長に迎え、本格的なツーピースキュー製作が日本で始まります。しかし翌1969年、両社が相次いで倒産。夢は潰えたかに見えました。

フォーマンは諦めませんでした。1970年3月、単独出資で有限会社アダムカスタムキューズジャパンを入間市に設立。ヘルムステッターを社長に据え、再び挑戦を開始します。そして、生産拡大のため、彼らが選んだ外注先こそ、三木木工製作所でした。

株式会社三木、新時代への飛翔

選定理由は明確でした。早期からのツーピースキュー研究、職人技の機械化による高精度と安定品質。三木の強みが、アメリカ企業の眼鏡に適ったのです。

1970年4月25日、社名を「株式会社三木」へ変更。木工の枠を超えた、多様なものづくりへの決意を込めた新たな船出でした。翌1971年10月1日、アダムカスタムキューズジャパンと製造受託契約を締結。従業員20名体制で、アメリカ水準のツーピースキュー製作が本格始動します。日本の精密技術とアメリカの設計思想が融合した、新時代の幕開けでした。

Part 5: 受託製作時代 1971-1979

見えざる巨人、世界を支える

1971年、株式会社三木はアダムカスタムキューズジャパンからのOEM生産を開始します。”ADAM”ブランドを冠したキューは、フォーマンの販売網とヘルムステッターの最新技術により世界市場へ。三木の名は表に出ることなく、しかし確かな品質で、日本のキュー製作水準を飛躍的に高めていきました。

1971年のニクソン・ショックにより円高が進行。多くの輸出企業が苦境に立たされる中、三木は生き残ります。ヘルムステッターが要求する高度なインレイ技法や精緻な彫刻装飾。難題を一つひとつクリアする技術力が、途切れぬ注文を呼び込んだのです。

三大陸を制した、月産2,000本の実力

1970年代中期、三木の製作範囲は飛躍的に拡大します。アメリカ向けポケットキュー、ヨーロッパ向けキャロムキュー、イギリス向けスヌーカーキュー。異なる仕様、異なる市場の要求に応え、月産2,000本の完成品を世界へ送り出しました。

アダム、ヘルムステッター、ブランズウィック、ロンゴーニ、ライリー。いくつものブランド名を冠したキューが、三木の工場から生まれていました。世界中のプレーヤーは、それが日本製であることさえ知らなかったでしょう。しかし確かに、株式会社三木は世界のビリヤード界を支える、見えざる巨人となっていたのです。

Part 6: 試練と変革 1980-1994

円高の逆風、そして突然の光

1980年代、アメリカのビリヤード人気は下降。1985年のプラザ合意後、為替は1ドル150円台へと円高が加速し、日本製キューの輸出メリットは急速に失われていきます。1986年、アダムカスタムキューズジャパンは社名を有限会社アダムへ変更、ヘルムステッターはアメリカへ帰国。三木への発注は減少し、厳しい時代が訪れました。

しかし1987年、風向きが一変します。映画『ハスラー2』公開と「プールバー」の登場により、空前のビリヤードブームが日本を席巻。ビリヤード台とキューの需要が爆発的に高まります。

制約の中の技術革新

ところが三木は、契約上アダムへの納品しか許されていませんでした。そこで選んだのが、ビリヤード台のレール枠製作。最先端のNCマシン(コンピュータ制御工作機械)を導入し、この技術革新は、より複雑なインレイデザインを可能にしました。

しかし独自デザインの提案は採用されず、三木が製作できるのは普及モデルが中心。OEMという立場が、大きな足枷となっていたのです。

自由への決断、そして冬の時代

1988年、経営方針をめぐって新たな局面が訪れます。委託元のアダムとの協業継続について、両社の間に異なる見解が生じることになりました。この時期、三木は今後の事業展開について検討を重ね、自社の経営方針と異なる方向性については了承することができず、契約関係の見直しを進めることになります。

その後、契約を解消し、三木は独立したキューメーカーとしての道を模索することになりました。

しかし自由には代償が伴いました。契約終了後も、海外バイヤーや国内業者との直接取引は実現せず、アダムからの注文に応じる状況が数年続きます。1991年、ブームは終息。三木は家具部材や三味線の製作で経営を維持する、長い冬の時代を迎えることになりました。

To Be Continued…